2021.01.26

飲食店向け

2つのチェーンがファミレス史に残した功績。不況を超えて新たな時代へ【ファミレス史】

ファストフードとレストランの中間的役割として、長年人々に愛され続けてきたファミリーレストラン。同分野はどのようにして外食産業の一部となり、その地位を確立してきたのだろうか。本稿では、ファミリーレストランが歩んできた歴史へと迫っていく。後編となる今回は、ファミレス産業を草創期から支えてきた2チェーンのあらましを振り返る。競争が激化する外食産業において、今後、ファミリーレストラン業界はどのような道を歩んでいくのだろうか。

戦後の経済成長を背景に創業した「ロイヤルホスト」は、大阪万博への参加を機にファミレス文化の旗手へ

1940年代、戦争をきっかけに低迷した外食文化だったが、50年代以降は朝鮮戦争後の好景気によって復活の時代を迎えた。54年から73年まで続く高度経済成長期には、国民の所得が増大する一方で、物価は所得ほどの上昇を見せず、家計に余裕が生まれている。こうした状況が、外食市場の拡大に直接的に作用した。まさにその時代、福岡で誕生したのが、ファミリーレストランチェーンの草分けとなる「ロイヤルホスト」である。

Royal Host restaurant in Takasaki Japan. This restaurant chain offers tasty American and Japanese dishes.

同チェーン創業者の江頭匡一は、米軍基地でのコック経験やそこで得たノウハウを下地に、3つの飲食事業を地元・福岡で誕生させた。そのうちのひとつが、洋食レストランの展開だ。

同氏は、銀座の有名店「コックドール」を経営していた「月ヶ瀬」社長の伊藤佐太郎に教えを請い、店舗設計者や支配人、チーフコックなどの紹介を受けると、53年11月、福岡初のフランス料理店「ロイヤル中洲本店」をオープンした。1階に親しみやすい喫茶、2階にやや敷居の高いフレンチレストランという、ホテルニューグランドのレストランに似た構造を持つ同店は、パフェやサンデーを提供した1階を中心に人気を博した。オープンから3か月後には、マリリン・モンローが夫のジョー・ディマジオとともに来店。彼女がロイヤルのオニオングラタンスープを気に入り、滞在期間中、毎日注文していたというエピソードは有名である。

オニオングラタンスープ(istock)

1号店の成功を受けて江頭は55年、大阪以西にロイヤルを順次出店する方針を打ち出す。翌年には、それまでに展開していたベーカリー・アイスクリーム・レストランの3事業を統合し、ロイヤル株式会社(のちのロイヤルホールディングス株式会社)を設立した。59年に福岡・天神にオープンした2号店「ロイヤル新天町店」では、洋菓子用のショーケースを18金メッキ、シャンデリアを輸入物で揃え、店舗設計に“華やかさ”を取り入れる。「非日常の特別感があるが大衆でも手が届き、本格料理や甘味が1品ごとに注文できる」というファミリーレストランの主な構成要素が、「ロイヤル」にすべて出揃った。

江頭はその後、「ロイヤル」をチェーン展開するにあたり、外食を産業化する必要性を感じ、国内ではまだ例のなかったセントラルキッチンの設立に注力。69年には、食材を一括調理し、冷凍で各地の店舗へと送り出す集中調理工場「ロイヤルセンター」を建設している。個人店が産業の中心だった当時、冷凍によって画一化された商品を提供する姿勢には批判も多く、コックや料理専門誌からは「客を馬鹿にしている」との言葉もあった。しかし、このセントラルキッチンによって、翌年以降、「ロイヤル」の名はさらに轟くこととなっていった。70年は、大阪万国博覧会が開催された年である。

当初、大阪万博には、モータリゼーションを契機にホテル・レストラン事業で成功を収めたアメリカの企業・ハワードジョンソンがレストランを出店する予定だった。この計画を聞きつけた江頭は、本場の店舗運営ノウハウを吸収するチャンスだと考え、人件費をロイヤルが持つ形でスタッフを派遣する承諾を得たが、不採算を理由にハワードジョンソンの出店計画そのものが頓挫した。それでも諦めなかった彼は、ハワードジョンソンの支援を前提にロイヤルが運営を代行することを提案。程なく駐日米国大使館から正式に出店要請を受けるのだった。

(写真:PIXTA)

ロイヤルは大阪万博で、「カフェテリア・レストラン」「ウエスタンステーキ・ハウス」「ハワード・ジョンソンショップ」「ケンタッキー・フライド・チキン」の4店舗を展開した。江頭は代行を提案した時点から赤字を覚悟していたが、万博に事前の予想を上回る来場があったことなどから、その見込みは外れることになる。ロイヤルが運営した4つのレストランは、当初採算ラインと踏んでいた7億円を優に超える11億円を売り上げた。その成功の陰に、セントラルキッチンの存在があったことは言うまでもない。

マニュアル化とリースバックの導入。「スカイラーク」がファミレスのチェーン化に残した功績

1970年が“ファミリーレストラン元年“と呼ばれるのは、大阪万博でのロイヤルの成功だけが理由ではない。万博会期中の7月には、東京・国立で有名チェーンの1号店がオープンしている。スカイラーク(現・すかいらーくホールディングス)である。日本において同産業の原型を作ったのがロイヤルであるとするならば、スカイラークは「ファミリーレストラン」の名を定着させたチェーンだ。同チェーンは、横川端(ただし)・亮(たすく)・竟(きわむ)・紀夫の4兄弟が創業した。

(株式会社すかいらーくホールディングス)

4人はスカイラークをオープンするまで、東京都西部・ひばりが丘などで「ことぶき食品」という個人経営の食料品店を経営し、順調に業績を上げていた。しかし60年代後半、最寄りにスーパーマーケットチェーンの西友ストアが進出し始めると、苦戦を強いられ始める。このまま「ことぶき食品」を続けるか、別の分野で新しい事業を始めるか、葛藤するなかで参加したのが、流通業界の研究団体・ペガサスクラブが69年に実施したアメリカ視察ツアーだった。

同ツアーでアメリカのモータリゼーションの現状や、それにともなう郊外型のショッピングセンター・外食チェーンの隆盛を目の当たりにした4人は、日本もやがて同じ道を歩むと確信し、次なる舞台を外食産業に見定めた。当初はファストフードに着目し、米・マクドナルドとの提携を考えたが、権利を買い取るためには3億円もの金額が必要とわかり、断念。次点として、同様に台頭が著しかったロードサイドのコーヒーショップ(アメリカでは当時、デニーズやビッグボーイ、ハワードジョンソン、サンボズなどが出店攻勢を強めていた)へと視線を向け、翌年、同分野で新事業をスタートさせた。

開業時、ビジネス客の需要を意識し、店名に「コーヒーショップ」の名を冠したスカイラークだったが、オープンしてみると、新興住宅地の国立ではファミリー層の食事利用も多く、名前と実態がマッチしていなかった。そうした状況を改善するべく考案されたのが、「ファミリーレストラン」の呼称である。

同チェーンはその後、24時間営業のスタート(72年)、セントラルキッチンの建設(75年)のほか、マニュアルの作成やリースバックの導入も実施し、チェーン化を推し進めた。リースバックとは、テナント企業が設計した店舗を地主負担で建ててもらい、かかった費用に見合った家賃を、テナント側が都度納めていく不動産の貸借方式。立地として選んだ土地を買い上げるわけではないため、テナント企業は低コストで望んだ設計の店舗を確保でき、地主には土地の権利を手放さずに済むメリットがある。外食産業では例のなかった同方式の採用で、スカイラークの店舗数はみるみる増えていった。

セントラルキッチンの建設でファミレス産業の原型をつくったロイヤルと、マニュアルの作成やリースバックの導入で同産業のチェーン化を可能にしたスカイラーク。両チェーンに共通するのは、早くからアメリカの実情を知り、日本も例外ではないと考えた点である。アメリカから遅れること約30年。日本にもモータリゼーションが訪れ、黎明期から深い関係にあった外食チェーンも台頭を見せ始める。その一分野であるファミリーレストランの歴史は、ロイヤルとスカイラークの名前なしに語れない。

National route 246 Aoyama Gakuin before

バブル崩壊がもたらした外食の低価格化。90年代以降、外食産業は激動の時代へ

1970年代には、ロイヤルが北九州市にロイヤルホスト1号店をオープン(71年)させたほか、デニーズ(74年)やフレンドリー(77年)、ジョイフル(79年)といった有名チェーンも各地でその歴史をスタートさせ、ファミレス産業が勃興期を迎えた。他の外食文化とは違い、同産業は自動車の普及を背景に、地方から盛り上がりを見せたことも特徴となっている。72年には名古屋でステーキレストラン・あさくまが、76年には山口でカーディーラーを母体とするレストラン・サンデーサンが、さらに78年には北海道で和食レストラン・とんでんが誕生した。

People walk by Denny’s restaurant in Tokyo. Denny’s operates 1650+ restaurants in many countries, including Japan.

戦後間もない時期にアメリカ式洋食を特別な体験として受け取った世代はこの頃、親として子どもを持つほどの年齢となっている。彼らは幼い頃にした体験を、ファミリーレストランを通じて自身の子どもたちにも与えようと考えたはずだ。やがて世の中はバブル景気へと突入し、家族が揃って食事をする機会が減少していったが、そのような時代だからこそ、「日曜の夜、家族全員で食べるファミレスの味」は、より特別な意味を持っていったに違いない。そうして同産業は80年代に最盛期を迎えた。

しかし、90年代にバブルが崩壊すると、ファミレス産業にも不況の波が訪れる。92年6月には、前年比10%割れといった数字が珍しくなくなり、同産業は転換期へと入っていった。その象徴となるのが、すかいらーくグループの低価格ブランド「ガスト」の登場である。

同ブランドは、これまで1,000円前後だったファミリーレストランのメニュー単価を大幅に下げ、主力商品(ハンバーグ、ピザ、スパゲッティなど)を380~580円ほどで提供した。店内にはジェットオーブンや呼び出しボタンを備え、衝撃的な価格でビジネスを成立させるため、限界まで業務効率化・省人化が図られた。日本で最初にドリンクバーを導入したのも同ブランドだと言われている。

Demigrass hamburger on a white plate

ガストの登場以降、ファミリーレストランは、同ブランドやサイゼリヤといった「低価格路線」と、和食やハンバーグ、ステーキなどを従来またはそれ以上の価格で提供する「高級路線」の二極化が進んだ。

近年では、不況を背景に同様に価格帯を下げてきた焼き肉店や、回転寿司チェーンとも競合する。家族連れで賑わっていた以前とは違い、モーニングを目的とした来店やシニア層・1人客の利用も目立ってきている。

今後は少子・高齢化などで、人手不足がより深刻となることが想定される。2020年、飲食業界を襲ったコロナ不況を背景に、ビジネスモデルの転換やブランドの淘汰も進んでいくだろう。登場から半世紀。ファミレス産業は新しい時代を迎えている。

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外食文化の定着と発展。勃興前夜、各所で聞こえたファミレス産業の胎動【ファミレス史】

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文=結木千尋
編集=Showcase Gig

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