2021.01.20

飲食店向け

外食文化の定着と発展。勃興前夜、各所で聞こえたファミレス産業の胎動【ファミレス史】

ファストフードとレストランの中間的役割として、長年人々に愛され続けてきたファミリーレストラン。同分野はどのようにして外食産業の一部となり、その地位を確立してきたのだろうか。本稿では、ファミリーレストランが歩んできた歴史へと迫っていく。前編となる今回は、ファミリーレストランの登場へと続く、外食文化の勃興を追う。

交通の発達がもたらした外食文化

日本に外食文化が根付き始めたのは明治時代だと言われている。その定着と切っても切り離せない関係にあるのが交通の発達だ。

江戸時代以前、人々には徒歩を中心とした移動手段しかなく、多くの場合、生活圏は自宅のある地域に限定されていた。しかし、1882年(明治15年)に鉄道が開通すると、短時間かつ複数人での長距離移動が可能となり、行動範囲がその他の地域にまで広がりを見せる。そうした動きにともない、人々の食行動の舞台は、駅周辺や鉄道車内といった“自宅の外”の割合が増していった。同年、新橋駅構内に西洋料理店がオープンし、翌年には上野駅構内で駅弁の販売がスタート。99年には山陽鉄道に食堂車も導入されている。かつて一部の人間だけが利用してきた外食は、交通の発達を契機に誰もが利用し得る一般的な文化となり、現在に至る発展への歴史を歩み始めた。

小林清親「新橋ステンション」明治14年。新橋駅構内には西洋料理店も。

その後、日本橋で生まれた日本初の百貨店・三越には、1900年から喫茶機能を持った休憩室が設置され、多くの客が待ち合わせなどに利用した。鉄道の開通まで遠出が珍しかった女性たちにとって、こうした外食の機会は貴重であったに違いない。当時の社会では、女性の家庭外での食事は無作法とされていたが、買い物のついでに喫茶に立ち寄ることは、彼女たちにもハードルが低かった。04年には、同じく東京・日本橋に店舗を構える百貨店・白木屋が、店内に利用客用の食堂を設置している。外食文化の先進地は、駅とその周辺から徐々にデパート食堂へと移っていった。

明治・大正期の外食を彩った“食堂”とファミリーレストランの共通点

明治後期~大正時代にかけては、各地に駅前食堂や簡易食堂、大衆食堂が誕生し、家族で揃って外食を楽しむシーンがより身近なものとなる。1924年、東京・神田須田町でオープンした須田町食堂は、洋食を中心としたメニューを低価格で提供するチェーン系食堂の始祖だ。「ウマイ、ヤスイ、ハヤイ」をモットーとした同店舗は、コロッケを3銭、牛皿や野菜サラダを5銭、カレーライスやカツレツを8銭で提供したという。白米1升(1.8キロ)が約42銭、たまご1個が約8銭という当時の相場から、その価格設定の安さを窺える。

須田町食堂は開業直後からたちまち評判となり、半年後には京橋に2号店をオープンさせた。洋食を食べたことがない地方の人たちには、東京に旅行した際、須田町食堂を利用することが東京観光の一部となっていったようだ。当時の人々にとって外食は、非日常を味わえる特別な体験だった。その浸透と食堂のにぎわいは、やがてデパート食堂の充実、ファミリーレストランの登場へとつながっていく。

(株式会社聚楽)

1904年に始まったデパート食堂の文化は、外食の浸透にともなって他の百貨店にも波及していった。もともと日本の百貨店は草創期から子どももターゲットとしており、「デパート食堂=家族で利用する場所」となるまで、それほど時間はかからなかったようだ。他に先駆けて食堂を導入した白木屋はその前年、木馬やシーソーなどの遊具を置いた遊戯室を店舗内に設け、百貨店を子どもも楽しめる場所として打ち出した。09年には三越が第1回児童博覧会という催しをおこない、子ども連れの家族に商機を見出している。

30年ごろになると、デパート食堂には子ども向けのメニューも誕生した。これを上野松坂屋が定番化したのが、お子さまランチのはじまりである。35年には三越が10種類以上のメニューから構成された「お子様献立」を作成。デパート食堂は日に日に「家族が外食を楽しめる場所」としての色を強めていった。こうした位置づけは、まさしくファミリーレストランそのものと言えるものだろう。

1930年に日本橋三越で提供されていた「御子様洋食」にはチキンライス、コロッケ、ハム、スパゲッティーなど盛り付けられていたという。

戦後の外食文化の低迷がファミリーレストランに与えた影響

その一方で、順調に浸透してきた外食文化にも、1940年代には不遇の時代が訪れる。戦争の激化にともなって敷かれた食糧統制により、食の自由な提供が難しくなったのだ。なかでも、41年から実施された外食の食券制は、飲食店の運営に直接的な影響を与えた。同制度は、戦後のコメの不作などもあって49年まで続き、その間、多くの店舗が業態変更や休業を余儀なくされている。鉄道の開通から約60年。40年代は外食文化にとって、“空白の10年”とも言える時代となった。

しかしながら、戦争がもたらしたこの“空白の10年”は、意外な形でファミリーレストランの普及へと作用していく。食糧統制下における米食離れはパン食の浸透に寄与し、52年まで続くアメリカによる統治は、国民がアメリカ式洋食に触れるきっかけをもたらした。特にこの欠食の時期に幼少期を過ごした世代にとっては、戦後スタートした学校給食でパン食に親しんだことが、洋食のハードルの低下へとつながった違いない。また、時折食べられるアメリカの食は、感動的な体験として記憶に残るものとなったはずだ。70年代にファミリーレストランが登場した際、親世代となっていた彼らは、同様の体験を自身の子どもたちにさせようとしたのではないだろうか。

アメリカから支給された小麦粉の「コッペパン」が給食の定番であった。

そうしたなか、横浜ではファミリーレストランの先駆けとされるホテルレストランが誕生している。ホテルニューグランドの1階にオープンしたグリルルームだ。同ホテルには当初、コース料理を提供するメインダイニングのみが設置される予定だったが、よりカジュアルに食事を楽しんでもらうため、1品ごとの注文に対応するこのレストランが併設された。横浜の人たちは、「日常のちょっとした贅沢」として気軽に同レストランを利用したようだ。

さらにホテルニューグランドでは、「スパゲッティ ナポリタン」「シーフード ドリア」「プリン・ア・ラ・モード」といった、ファミリーレストラン文化に直結する商品も考案されている。これらのメニューは、同ホテルで育ち、その後巣立っていったコックたちの手により、各地へと広がり、洋食の定番料理となっていった。ファミリーレストランの登場・浸透と深い関係にあるのが、外食文化が低迷した戦後の時代だと言えるだろう。

現在のホテルニューグランド

続く後編では、70年代のファミリーレストランの登場から、現在に名を残す有名チェーンの沿革へと迫っていく。

後編はこちら

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文=結木千尋
編集=Showcase Gig

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